2007年12月19日
京街道を歩く ~高麗橋
午後五時半、やっと高麗橋に着いた。
東海道五十七次の終点である高麗橋。
現在の高麗橋は、昭和のはじめに架けられたコンクリート製であるが、高欄や擬宝珠などもあって、少しだけそんな雰囲気もある。

橋の東側には「里程元標跡」があり、ここが西日本の主要道路の起点となっていたようであるが、現在は梅田新道に換わったという。
何はともあれ、これで昨年の東海道五十三次に続き、東海道五十七次をすべて歩いたことになる。
裸足に雪駄で歩いた足の裏には、またマメが二つほどできていたのであった。
東海道五十七次の終点である高麗橋。
現在の高麗橋は、昭和のはじめに架けられたコンクリート製であるが、高欄や擬宝珠などもあって、少しだけそんな雰囲気もある。
橋の東側には「里程元標跡」があり、ここが西日本の主要道路の起点となっていたようであるが、現在は梅田新道に換わったという。
何はともあれ、これで昨年の東海道五十三次に続き、東海道五十七次をすべて歩いたことになる。
裸足に雪駄で歩いた足の裏には、またマメが二つほどできていたのであった。
2007年12月19日
京街道を歩く ~京橋
日も暮れてきたが、なんとか京橋を渡る。
豊臣秀吉が整備した京街道は、この京橋が起点であったらしい。
京橋は大坂城の北に位置し、寝屋川に架かっている。
しかし、その水面に映っているのは、近代的な都会のビルであった。
豊臣秀吉が整備した京街道は、この京橋が起点であったらしい。
京橋は大坂城の北に位置し、寝屋川に架かっている。
しかし、その水面に映っているのは、近代的な都会のビルであった。
2007年12月18日
京街道を歩く ~商店街を抜けて
守口宿を過ぎると、数々の大阪らしい商店街の中などをひたすら京橋に向かって歩く。
たまに「京街道」と書かれた新しい道しるべなどもあり、また道路の舗装の色が赤っぽくなっていて、京街道のことも大事にされているが、道は曲がったり途切れたりするため、地図を何度も確認しながら京橋まで歩く。
京橋駅は、本当の京橋から少し離れているのだが、その京橋駅によって京街道は分断され、道に迷ってしまった。
なんとか旧街道の上を走る太い道を探し、また街道歩きを始める。
さすがにここまで来ると街道情緒など、ほとんど残ってはいない。
2007年12月18日
京街道を歩く 【守口宿】
守口宿は、本陣1、問屋2、問屋場1という宿場町であったが、大坂から二里ほどの距離でもあり、宿泊者は多くなかったという。
この守口宿には、豊臣秀吉によって築かれた、文禄堤がまだ残されており、もちろん京街道もその文禄堤の上を通ってゆく。
その両側には比較的古い建物もまだ残っており、守口というかなり都会でありながら、旧街道情緒は意外と感じられるのである。
この守口宿には、豊臣秀吉によって築かれた、文禄堤がまだ残されており、もちろん京街道もその文禄堤の上を通ってゆく。
その両側には比較的古い建物もまだ残っており、守口というかなり都会でありながら、旧街道情緒は意外と感じられるのである。
2007年12月18日
京街道を歩く ~盛泉寺と難宗寺
守口一里塚跡を通り過ぎると、いよいよ守口宿に入ってゆく。
東海道五十七次の最後の宿である。
守口宿に入ると、すぐに盛泉寺が現れる。
ここには慶応四年、明治天皇行幸の折に、三種の神器を奉安する仮の内侍所が置かれたところでもあったらしい。
そして、またすぐに現れるのが難宗寺。
ここのイチョウの大木は樹齢約500年ともいわれ、その大きく張り出した枝からは、たくさんの黄色い葉が空に舞っていた。
東海道五十七次の最後の宿である。
守口宿に入ると、すぐに盛泉寺が現れる。
ここには慶応四年、明治天皇行幸の折に、三種の神器を奉安する仮の内侍所が置かれたところでもあったらしい。
そして、またすぐに現れるのが難宗寺。
ここのイチョウの大木は樹齢約500年ともいわれ、その大きく張り出した枝からは、たくさんの黄色い葉が空に舞っていた。
2007年12月18日
京街道を歩く ~段蔵
この日は、お昼頃から京阪電車の枚方公園駅で降りて、桜町からまた歩き出した。
桜町で旧街道は一度途切れ、住宅地を抜けてから、また光善寺近くになると道は細くなり、旧街道となるのである。
この辺りは古い建物が少し残っていたりするが、それより目を引くのは段蔵である。
段蔵は、石垣の上に建てられており、これは洪水のときに家財道具などを避難させるための知恵なのである。

そんな段蔵を眺めながら、また歩いてゆくと淀川の堤防に出るので、今度は堤防の上を歩いてゆく。
この堤防の上の歩行は、かなり長く感じられ、また舗装されているのでそれだけ足にも負担がかかる。
淀川新橋、鳥飼・仁和寺大橋、鳥飼大橋の三つの大きな橋をくぐって、堤防の下に降り、また旧街道を探しながら歩く。
守口宿に近づくにつれ、少しずつ街道情緒が感じられてきた。
桜町で旧街道は一度途切れ、住宅地を抜けてから、また光善寺近くになると道は細くなり、旧街道となるのである。
この辺りは古い建物が少し残っていたりするが、それより目を引くのは段蔵である。
段蔵は、石垣の上に建てられており、これは洪水のときに家財道具などを避難させるための知恵なのである。
そんな段蔵を眺めながら、また歩いてゆくと淀川の堤防に出るので、今度は堤防の上を歩いてゆく。
この堤防の上の歩行は、かなり長く感じられ、また舗装されているのでそれだけ足にも負担がかかる。
淀川新橋、鳥飼・仁和寺大橋、鳥飼大橋の三つの大きな橋をくぐって、堤防の下に降り、また旧街道を探しながら歩く。
守口宿に近づくにつれ、少しずつ街道情緒が感じられてきた。
2007年12月17日
京街道を歩く ~鍵屋資料館
江戸時代からの船宿であった「鍵屋」の建物が、枚方市に寄贈され資料館として開放されている。

通りに面しているのは、江戸時代の船宿、そして、通りの奥にある別館は料理旅館として平成9年まで営業されていた鍵屋の建物である。
この辺りで日も暮れてきたため、そのまま以前遊郭があった桜町まで歩き、この日の街道歩きは終了とした。
通りに面しているのは、江戸時代の船宿、そして、通りの奥にある別館は料理旅館として平成9年まで営業されていた鍵屋の建物である。
この辺りで日も暮れてきたため、そのまま以前遊郭があった桜町まで歩き、この日の街道歩きは終了とした。
2007年12月17日
京街道を歩く 【枚方宿】
天の川を渡り、枚方市駅に近い東見附跡からが、枚方宿である。
この枚方宿は京と大坂の中間に位置し、水陸両方の交通でかなり賑わい、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠が67軒という規模ながら、四つの村にまたがる広い宿場町であったようである。
東見附跡からすぐに、江戸時代の問屋の建物が現存し、雰囲気はある。
枚方市駅をこえてから、また狭い旧街道になるのだが、古い建物も比較的多く残っており、街道情緒を楽しむにはちょうどよい。

枚方宿で有名なのは、「くらわんか船」である。
船がこの枚方に近づいてくると、小船がこれに横付けされ、
「飯食らわんか!
酒食らわんか!
ごんぼ(牛蒡)汁は食らわんか!」
と勢いよく売りにくるので、初めて来た旅人は、その言葉や威勢に驚いたという。
この枚方宿は京と大坂の中間に位置し、水陸両方の交通でかなり賑わい、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠が67軒という規模ながら、四つの村にまたがる広い宿場町であったようである。
東見附跡からすぐに、江戸時代の問屋の建物が現存し、雰囲気はある。
枚方市駅をこえてから、また狭い旧街道になるのだが、古い建物も比較的多く残っており、街道情緒を楽しむにはちょうどよい。
枚方宿で有名なのは、「くらわんか船」である。
船がこの枚方に近づいてくると、小船がこれに横付けされ、
「飯食らわんか!
酒食らわんか!
ごんぼ(牛蒡)汁は食らわんか!」
と勢いよく売りにくるので、初めて来た旅人は、その言葉や威勢に驚いたという。
2007年12月17日
京街道を歩く ~灯篭も道しるべ
牧野を過ぎたところにある、片埜神社参道の灯篭。

対になっている灯篭の、向かって左の台座には「都京」、向かって右の台座には「坂大」と大きく彫られており、これらも京街道の道しるべとして使われていたのであろう。
ここから枚方までの旧街道は、一部が京阪電車の線路になっているため、そのあたり(御殿山付近)にはあまり雰囲気は残っていない。
しかし、枚方宿に近づくにつれて、また街道情緒は少し戻ってくるのである。
対になっている灯篭の、向かって左の台座には「都京」、向かって右の台座には「坂大」と大きく彫られており、これらも京街道の道しるべとして使われていたのであろう。
ここから枚方までの旧街道は、一部が京阪電車の線路になっているため、そのあたり(御殿山付近)にはあまり雰囲気は残っていない。
しかし、枚方宿に近づくにつれて、また街道情緒は少し戻ってくるのである。
2007年12月17日
京街道を歩く ~枚方市は土色舗装
さて、橋本からは、田んぼのあぜ道のような道を通って、樟葉へと向かう。
途中に、戊辰の役でも使用された、樟葉砲台跡などもあり、そこから住宅地へ入りしばらく歩くと、道が土色の舗装へと変わるのである。
これは、旧京街道の道に限って、それをイメージさせるように配慮されたものであり、大阪府枚方市は京街道を比較的大事に考えている、ということがわかる。
京街道は、くずは駅で分断され、代わりに堤防沿いの府道を歩いてゆくが、しばらくしてまた旧街道が出現するため、これを歩いてゆく。
2007年12月17日
京街道を歩く ~間の宿・橋本
この日は、午後に橋本から京街道を歩く。

橋本は間の宿(本来は宿泊できないが、大きな茶屋などがあり少し栄えた街)であったようだが、それよりも強烈な印象を与えるのが遊郭街ということであろう。
戦後の赤線廃止までは、かなり賑わっていたといい、現在もその名残を見せる高欄付きの二階長屋が軒を連ねて残っている。これだけ古い街の様子が、集中的に残っているところはあまりない。
しかし、これらの貴重な木造建築に対し、保護の様子はまったくなく、この橋本からも年々貴重な建物や、旧街道としての雰囲気は消されつつある。
やはり遊郭という負のイメージが強いからであろうか。
せめて少しでも、この素晴らしい街並みを保存していただきたいと、願うばかりである。
橋本は間の宿(本来は宿泊できないが、大きな茶屋などがあり少し栄えた街)であったようだが、それよりも強烈な印象を与えるのが遊郭街ということであろう。
戦後の赤線廃止までは、かなり賑わっていたといい、現在もその名残を見せる高欄付きの二階長屋が軒を連ねて残っている。これだけ古い街の様子が、集中的に残っているところはあまりない。
しかし、これらの貴重な木造建築に対し、保護の様子はまったくなく、この橋本からも年々貴重な建物や、旧街道としての雰囲気は消されつつある。
やはり遊郭という負のイメージが強いからであろうか。
せめて少しでも、この素晴らしい街並みを保存していただきたいと、願うばかりである。
2007年12月16日
京街道を歩く 【淀宿】
淀宿には、本陣、脇本陣はなく、旅籠が16軒あるだけの宿場町であった。
しかし、水運でかなり栄えていた街であったらしい。
現在、この淀で有名なのは京都競馬場であろう。
宇治川の堤防から下りると、その競馬場の横を歩き、淀宿へ入ってゆく。
淀は街道情緒溢れる街ではあるが、あまり古いものは残っていない。
しかし、淀城の石垣などは、城跡が近くに残っている宿場町は京街道にはないため、これは貴重である。

淀の古い街道筋を抜けると急に田畑が広がり、さらに田畑を抜けてゆくと、宇治川、木津川に架かる御幸橋に出る。京街道はこの御幸橋より、少し西を渡っていたらしい。
御幸橋を右折し、堤防沿いの府道を歩いてゆき、大きな楠のところで、堤防を下りる。
このあたりからは、間の宿である橋本だが、日が暮れてきたため、この日の街道歩きはここまでとした。
そして、裸足の足の裏には、右足に血マメが一つ、左足にマメが二つできていたのであった。
しかし、水運でかなり栄えていた街であったらしい。
現在、この淀で有名なのは京都競馬場であろう。
宇治川の堤防から下りると、その競馬場の横を歩き、淀宿へ入ってゆく。
淀は街道情緒溢れる街ではあるが、あまり古いものは残っていない。
しかし、淀城の石垣などは、城跡が近くに残っている宿場町は京街道にはないため、これは貴重である。
淀の古い街道筋を抜けると急に田畑が広がり、さらに田畑を抜けてゆくと、宇治川、木津川に架かる御幸橋に出る。京街道はこの御幸橋より、少し西を渡っていたらしい。
御幸橋を右折し、堤防沿いの府道を歩いてゆき、大きな楠のところで、堤防を下りる。
このあたりからは、間の宿である橋本だが、日が暮れてきたため、この日の街道歩きはここまでとした。
そして、裸足の足の裏には、右足に血マメが一つ、左足にマメが二つできていたのであった。
2007年12月15日
京街道を歩く ~電車発祥の地
写真は、伏見の京橋近くの交差点。
向かって右手前の角に、面白い石碑が建っていた。
それは「我が国に於ける電気鉄道事業発祥の地」というものである。
明治28年、この下油掛から、京都駅まで、日本最初の電車が営業開始したという。
ちなみに明治5年に新橋ー横浜間に開通したのは、鉄道であるが蒸気機関車だと思う。
この電車は、のちの京都市電になったらしい。
2007年12月15日
京街道を歩く 【伏見宿】
江戸から数えて、五十四番目の宿となる、伏見宿。
豊臣秀吉の伏見城の城下町として、また江戸時代もかなりの大きさの街として栄えていた。
宿場町としての規模も、現在の京橋付近を中心として、本陣4軒、脇本陣2軒、旅籠39軒とかなり大きい。
ここで、本陣などの宿泊施設について、ほんの少しだけ説明をしておこう。
本陣とは、身分の高い人が泊まる宿であり、参勤交代の大名はここに宿泊する。
脇本陣とは、本陣が空いていない場合の、身分の高い人が宿泊する宿であったが、普段は一般の旅人も泊めていたという。
そして、旅籠とは、一般の旅人が泊まる宿であった。
幕府は、原則的に旅人などが宿場町以外の地に宿泊することを禁じていたのであったらしい。
間の宿という、茶屋が大きくなったような街も形成されるが、そこへは原則的に宿泊できなかったのである。
話は長くなったが、本陣が4軒もある宿場町とはかなりの規模であり、京街道の四つの宿場町の中では最大であった。
この伏見宿へは、墨染付近から入り両替町を抜けて、何回も道を右折左折しながら京橋あたりまで進んでゆく。
両替町の近くには、銀座があったといい、この銀座のほうが江戸の銀座よりも歴史が古いらしいのだ。
伏見には比較的古い建物が残っているが、本陣建築などはまったく残っていない。
有名な寺田屋は旅籠であったと思うが、これは京街道から少し入った路地にある。
途中で、黄桜酒造の「カッパ・カントリー」があり、ここは資料館などを無料開放しているのだが、ここには「伏水」が湧いており、それを汲むことができるので嬉しい。ちょうど喉が渇いていたので、これをいただく。

江戸時代は中心であった京橋付近を通り過ごして、肥後橋から川を覗くと、ちょうど観光用の十石船が行き交っていた。
おそらく江戸時代などは、たくさんの船で賑わっていたのであろう。
そこを後にし、宇治川の堤防を歩いて次の淀宿を目指す。
豊臣秀吉の伏見城の城下町として、また江戸時代もかなりの大きさの街として栄えていた。
宿場町としての規模も、現在の京橋付近を中心として、本陣4軒、脇本陣2軒、旅籠39軒とかなり大きい。
ここで、本陣などの宿泊施設について、ほんの少しだけ説明をしておこう。
本陣とは、身分の高い人が泊まる宿であり、参勤交代の大名はここに宿泊する。
脇本陣とは、本陣が空いていない場合の、身分の高い人が宿泊する宿であったが、普段は一般の旅人も泊めていたという。
そして、旅籠とは、一般の旅人が泊まる宿であった。
幕府は、原則的に旅人などが宿場町以外の地に宿泊することを禁じていたのであったらしい。
間の宿という、茶屋が大きくなったような街も形成されるが、そこへは原則的に宿泊できなかったのである。
話は長くなったが、本陣が4軒もある宿場町とはかなりの規模であり、京街道の四つの宿場町の中では最大であった。
この伏見宿へは、墨染付近から入り両替町を抜けて、何回も道を右折左折しながら京橋あたりまで進んでゆく。
両替町の近くには、銀座があったといい、この銀座のほうが江戸の銀座よりも歴史が古いらしいのだ。
伏見には比較的古い建物が残っているが、本陣建築などはまったく残っていない。
有名な寺田屋は旅籠であったと思うが、これは京街道から少し入った路地にある。
途中で、黄桜酒造の「カッパ・カントリー」があり、ここは資料館などを無料開放しているのだが、ここには「伏水」が湧いており、それを汲むことができるので嬉しい。ちょうど喉が渇いていたので、これをいただく。
江戸時代は中心であった京橋付近を通り過ごして、肥後橋から川を覗くと、ちょうど観光用の十石船が行き交っていた。
おそらく江戸時代などは、たくさんの船で賑わっていたのであろう。
そこを後にし、宇治川の堤防を歩いて次の淀宿を目指す。
2007年12月14日
京街道を歩く ~墨染
山科では、個人タクシーの運転手に、
「醍醐寺ってどこ?」と聞かれた。
そんなに地元色濃厚ではないはずなのに、なぜだろう。
さらに歩き、山科から、伏見区に入る。
旧街道は、新しい道と合流や交差を繰り返し、進む。そのために地図などは必ず持っていなければならない。そして、何回も立ち止まり、地図などを見て確認してから進むため、歩くペースも上がらず、さらに疲れるのだ。

いろんな場所を曲がったりしながら旧街道を辿ってゆく。
伏見区に入ると、さすがに旧街道沿いには、古い民家などもあったりして、情緒がある。
さらに、細い旧街道を何回も曲がり、藤森を通り過ぎ、墨染に辿り着く。
この墨染辺りからが、伏見宿となっていたようである。
「醍醐寺ってどこ?」と聞かれた。
そんなに地元色濃厚ではないはずなのに、なぜだろう。
さらに歩き、山科から、伏見区に入る。
旧街道は、新しい道と合流や交差を繰り返し、進む。そのために地図などは必ず持っていなければならない。そして、何回も立ち止まり、地図などを見て確認してから進むため、歩くペースも上がらず、さらに疲れるのだ。
いろんな場所を曲がったりしながら旧街道を辿ってゆく。
伏見区に入ると、さすがに旧街道沿いには、古い民家などもあったりして、情緒がある。
さらに、細い旧街道を何回も曲がり、藤森を通り過ぎ、墨染に辿り着く。
この墨染辺りからが、伏見宿となっていたようである。
2007年12月13日
京街道を歩く ~大宅一里塚
山科の大宅には、かろうじて一里塚が、片方だけ残っていた。

一里塚は、街道の一里(約4キロ)ごとに、置かれていたものであり、道の両側に土を盛り上げ、そこに様々な木を植えていたのである。
現在、一里塚が残っているところは、かなり少なくなっており、残されていても片側だけか、道の両側に残されているところは非常に少ない。
大宅の一里塚の巨木はエノキであるが、東海道ではムクや松なども植えられている一里塚を見たことがある。
一里塚は、街道の一里(約4キロ)ごとに、置かれていたものであり、道の両側に土を盛り上げ、そこに様々な木を植えていたのである。
現在、一里塚が残っているところは、かなり少なくなっており、残されていても片側だけか、道の両側に残されているところは非常に少ない。
大宅の一里塚の巨木はエノキであるが、東海道ではムクや松なども植えられている一里塚を見たことがある。
2007年12月12日
京街道を歩く ~髭茶屋追分
11月下旬のある晴れた日、午前11時に大津市追分町から歩き出す。
格好は、黒作務衣上下に、裸足に雪駄という、あの懐かしいスタイルである。
大津から、国道一号線をそれて、旧街道に入ってゆくと、民家の端に三叉路があり、ここが髭茶屋追分である。
右に行くと、京の三條大橋に向かう東海道、左に行く道が伏見に向かう京街道である。
そして、ここは滋賀県大津市と、京都府京都市の境でもあるのだ。

左に曲がって京街道の緩やかな坂を下りてゆく。
旧街道沿いには、少し古い建物なども残っていて、静かな雰囲気がある。
しかし、山科に近づくにしたがって交通量も増え、騒々しくなってくる。
旧街道であるので、道はもちろん細い。そこへ車がたくさん走ってくるので、あまりのどかな街道歩きというわけにはいかないのだ。
そして、一台のカブ(原付)がなぜか、まっすぐ私に突進してきた。
そして、止まり、乗っていたおじさんが、
「音羽病院ってどこですか?」と道を聞いてきた。
私は地元民でもないのに、持っていた地図を見せて説明をする。
そして、私もその音羽病院の横を通り過ぎてきたのであった。
格好は、黒作務衣上下に、裸足に雪駄という、あの懐かしいスタイルである。
大津から、国道一号線をそれて、旧街道に入ってゆくと、民家の端に三叉路があり、ここが髭茶屋追分である。
右に行くと、京の三條大橋に向かう東海道、左に行く道が伏見に向かう京街道である。
そして、ここは滋賀県大津市と、京都府京都市の境でもあるのだ。
左に曲がって京街道の緩やかな坂を下りてゆく。
旧街道沿いには、少し古い建物なども残っていて、静かな雰囲気がある。
しかし、山科に近づくにしたがって交通量も増え、騒々しくなってくる。
旧街道であるので、道はもちろん細い。そこへ車がたくさん走ってくるので、あまりのどかな街道歩きというわけにはいかないのだ。
そして、一台のカブ(原付)がなぜか、まっすぐ私に突進してきた。
そして、止まり、乗っていたおじさんが、
「音羽病院ってどこですか?」と道を聞いてきた。
私は地元民でもないのに、持っていた地図を見せて説明をする。
そして、私もその音羽病院の横を通り過ぎてきたのであった。
2007年12月11日
京街道を歩く ~東海道五十七次
「東海道五十七次」と書いたが、「東海道は五十三次じゃないの?」と言われそうである。
実は、東海道には、江戸から数えて五十三番目の大津宿から、さらに西へ、伏見、淀、枚方、守口、という四つの宿があったのである。つまり、その四つの宿を合わせて、東海道五十七次と呼んだのであった。
東海道は江戸の日本橋から、京の三條大橋までなのだが、さらに京街道に入り、大坂の高麗橋まで延びていた。
京街道は、大坂街道などとも言われていたが、東海道五十七次の場合、京には入らず、大津宿から髭茶屋追分で分かれ、直接次の宿である伏見宿に向かっている。
髭茶屋追分から、大坂高麗橋までは約50キロほどの道程を進む。
私は、東海道を歩いて江戸へ向かったように(平成18年5月~6月の、旧街道野宿徒歩紀行)、この京街道も実際に歩いてみることにしたのである。
そして11月の下旬、現在の滋賀県大津市と、京都府京都市山科区の境にある、追分に来たのであった。
実は、東海道には、江戸から数えて五十三番目の大津宿から、さらに西へ、伏見、淀、枚方、守口、という四つの宿があったのである。つまり、その四つの宿を合わせて、東海道五十七次と呼んだのであった。
東海道は江戸の日本橋から、京の三條大橋までなのだが、さらに京街道に入り、大坂の高麗橋まで延びていた。
京街道は、大坂街道などとも言われていたが、東海道五十七次の場合、京には入らず、大津宿から髭茶屋追分で分かれ、直接次の宿である伏見宿に向かっている。
髭茶屋追分から、大坂高麗橋までは約50キロほどの道程を進む。
私は、東海道を歩いて江戸へ向かったように(平成18年5月~6月の、旧街道野宿徒歩紀行)、この京街道も実際に歩いてみることにしたのである。
そして11月の下旬、現在の滋賀県大津市と、京都府京都市山科区の境にある、追分に来たのであった。


